「不登校当事者による多様な進路交流会」レポート④ 〜保護者の経験談 vol.2〜
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「不登校当事者による多様な進路交流会」レポート④ 〜保護者の経験談 vol.2〜

 2025年3月20日(祝)に三軒茶屋のキャロットタワー5階で行われた「不登校当事者による多様な進路交流会」では、子どもたちだけでなく保護者の皆さんにもおはなしいただきました。

 不登校当時のお子さんの様子や現在の様子、その時に保護者として意識していたことや考えたこと、どのような対応をしたのか、を中心にお話を伺いました。また、その経験を経て、同じように悩む保護者の方へのメッセージなどもいただきました。

 この記事では、vol.2として3名の方のお話を掲載します。

 

〜こちらもあわせてお読みください〜

★過去の「不登校当事者による多様な進路交流会」会場レポートはこちら

★子どもたちの経験談 vol.1の記事はこちら

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Staff member avatar Eさん
息子が中1から不登校になっていました。現在高校3年生で、この4月(2025年)から大学に進学することになっています。

うちの子が不登校になり始めたきっかけは全くわからない状態だったんですけど、中学校に入学してすぐの時から体調が悪くなったり朝起きられなくなったり、ものすごく明るくて社交的だった子がイライラをして笑顔がなくなって、友達と交流がなかなか持てなくなってきました。その時点で何か少しおかしい状態なんじゃないかと気付けばよかったんですけど、「反抗期が始まったんじゃないか」「自分が反抗されてるだけじゃないか」と思いながら過ごしてきた1学期が終わって、2学期に入った1日目、学校に急に行けなくなりました。ただその日はお腹が痛い、体がだるいということで行かなかったんですけれども、その日から毎朝起きられなくなり、私が車で学校まで送り迎えをしていました。本人が学校に行きたいとその時は言ってきたので、毎日学校まで送り迎えをしていました。でもそれでもだんだん起きられなくなって、午前中行けなくなって、私もだんだん辛くなってきて、学校に連絡せず登校しない日もあったんですけれども、でもそれでも学校に行きたいと本人は言い続けたので、しばらく車で行ける日は送る、行けない日は学校に連絡せず休むという状態が2学期に続きました。3学期にはとうとう行けなくなって、家にこもるような状態になりました。息子が「なんで僕は学校に行けないんだろう」「なんで毎日家の中で過ごして起きられないんだろう」と言いながら泣いていたのを今思い出します。その時私もすごく辛くて、私も「なんであなただけ学校に行けないの」と心の中で思っていたのを思い出しました。今考えたら本当にかわいそうなことをしたなと思うんですけど。

でもそんな時に学校のカウンセラーの先生が、「お母さんだけでもカウンセリングルームに来てみませんか」と言ってくださって、最初のうち行けなかったんですけど、ようやく行けるようになり、カウンセリングルームの先生にいろんな話を聞きました。不登校になった子の話とか、不登校の会、世田谷区の会に心が落ち着いたら行ってみたらどうですかって言われました。結局息子が中1の間は行けなかったんですが、中2に入ったところで私の心もだいぶ落ち着いてきて、学校に行かなくていいって思うようになりました。本人は行きたい気持ちもあったんだと思いますけど、でも家族で学校に行かなくていいという選択をしました。そしたら少し心が楽になって、ようやく不登校の世田谷区の会にも参加させていただきました。

初めて行ったときに皆さんの話を聞いて、いろんな人たちがいて、でも仲間がここにいるっていうことをすごく感じて、ものすごく心が楽になりました。子どもが学校に行かない状態で「私は一人ぼっちなんじゃないか」ってちょっと思った時もあったんですけど、いろんなお母さんたちがいて、いろんな子どもがいて、いろんな考えでいけなくなった子たちがいて、でもみんな仲間なんだなと思って、「ゲームばっかりやってる状態でもいい」「自由に遊んでいい」と言ってもらえたことで心が楽になりました。

私が支えてもらったのは学校の先生、スクールカウンセラーの人、不登校の親の会の人たち、こぐまの会の人たち、皆さんに支えられて、その不登校の時を乗り越えてきました。そして子どもも同じように学校の先生や友達、いろんな方に支えられて、家にこもってただけの生活から、ほっとスクールなど自分が行ける場を見つけて、1人で自転車で日帰り旅にも出られるようになりました。その後息子から「僕、やっぱり学校に戻りたい。でも今さらみんなのところには戻れない。どうしたらいいかな。」と相談された時に、学校の先生も私も「今通っているほっとスクールも学校じゃないか」という話をしました。たまたまその学年に5,6人同じ学年の子たちがいて、大好きな友達もできていたので、週1回ぐらいしか行っていなかったほっとスクールに中3から毎日通うようになりました。

高校に入るにあたってどうしたいかを聞いたら、「やっぱり学校に戻りたい」「もう一度学校に行ってチャレンジしたい」ということだったので、あえて普通科の高校を受けることにしました。中学校でのテストは1回も受けていない状態で、勉強も遅れていましたので、小論文による推薦入試のある学校を見つけて受験したのですが、落ちてしまいました。そこから本人が一念発起して、別の高校の推薦入試を受けたんですけど、そこも落ちてしまい、最後に三次募集があった私立高校を見つけて入学しました。私も子どもも「行けなかったら、また次の人生がある」と思っていたので、とりあえずやってみようということで普通科高校に行き始めましたが、無事に高校3年間を卒業することができることになりました。

なので、子どもはいつでも変わる時が来ると思っています。たまたまうちの子はちょっと早めに自分の人生を変えたいと思ったかもしれないけど、まだ変われない子も、これから変わる子も、もう変わった子も、新しい人生が必ず待っているんだなと思って過ごしていただければと思っています。ありがとうございました。

 

Staff member avatar Fさん
F(仮称)と申します。私には大学4年生、23歳の長男と14歳の長女と2人の子どもがいます。2人とも起立性調節障害と診断され、不登校状態になりました。長男は小4の3学期から中2まで不登校で、長女は小4の2学期から現在も不登校継続中です。途中3年ほど2人とも学校に通っていて、私自身も学校で仕事をしていた時期もありますが、約10年以上不登校の母をやっています。


我が家では東日本大震災の1ヶ月前、長女が誕生しました。娘の1歳のお誕生日をお祝いした翌日、息子は「この国の大人は信用できない」と言い放ち、起き上がれなくなりました。東日本大震災や夫の単身赴任が重なり、息子自身も学校でサッカーをして足を骨折したり、隣のクラスの学級崩壊などを経験し、子どもながらに許容できるストレスが限界に達したのだと思います。薬が効いて学校に行ける時も少しはありましたが、全く外出できずただ寝ているだけの時、風呂にも入れずゲームざんまいの日々、昼夜逆転などいろんな時期を経て、中3の4月からは完全登校を始めました。内申をいただいて高校受験をして、全日制高校に進学、高校に入学してからも部活動で怪我をした時や、季節の変わり目に体調を崩した時などには学校に通うことがめんどくさくなってくるのか、高卒認定を取ろうかなど弱気な発言もありました。でも何とか中退することなく、入学した高校を卒業しました。


現役で、地方の国立大学の医学部に合格し、2020年からは世田谷を離れ、地方で1人暮らしをしております。1人暮らしをしている間にも、コロナに罹患したり、車で事故を起こしたり、留年したり、親がすぐに助けてはやれない状況を幾度となく経験しましたが、同じように下宿生活を送る同級生に助けてもらいながら、乗り越え、何とか暮らしているようです。最近はアルバイトをするようになり、学生ではない方々と接する機会も増えたからか、「自分は恵まれた家庭で育ててもらったんだね」と話してくれるようになりました。一番状態がひどい時は「自分がこんなになったのは学校だけではなく、お前が悪い」「こんな家庭に生まれたくなかった」「児童相談所に預けてほしい」などと叫んでいたので、人としての成長を感じています。


長女の方は、小2の時に体育大卒の先生が担任になって、朝から晩まで怒鳴っている生活に耐えられなくなって登校を渋る時期もありましたが、小3までは学校生活や行事をとても楽しんでいました。コロナ禍だった小4の2学期から不登校になり、小5の2学期に起立性調節障害と診断されました。長男が家を出ていき、生まれてからずっと単身赴任だった父親との同居生活が始まったのも一因だったと思いますが、先生方の余裕のない言葉かけや学校側の対応そのものに対する不信感も大きかったと思っています。兄という手本があるからか、娘は大学生になったら親元を離れたいという思いが今の自分を支えているようです。高校生になったら、軽音部に所属してバンドを組んでみたいという夢を抱きながら、今ギターを一生懸命習っています。


10年の不登校生活を振り返って、私が特に大事にしていたことは、今という時間を目一杯子どもと共に楽しむことでした。ほぼ10歳違いの兄妹だった2人ですが、もし長男が普通に学校に通っていたら、一緒に過ごす時間はほとんどなくて、あまり兄妹という絆は生まれなかったかもしれません。10年、20年経った時に「3人でこんなことして楽しかったね」「あんなことあって面白かったよ」と言い合えるように、この不登校という時間は神様が私たちに与えてくれた大切な時間だったのだろうと、私自身が考えるようになったことは大きかったと思います。バケツいっぱいにスライムを作ってみたり、手で触るだけでなく足も入れて感触を楽しんだり、当時流行っていた妖怪ウォッチのキャラクターをパーラービーズで作ってリビングの壁を妖怪ウォッチだらけにしてみたり、アンパンマンを一緒に観て「お腹空いたな」と料理を始めてみたり。少しエネルギーがたまってくると野球観戦に東京ドームにも出かけられるようになりました。我が家は全員巨人ファンなので、今でも時々家族で球場観戦をしています。巨人を応援することが推し活みたいになって、巨人の勝利が子どもたちのエネルギーになっているように思います。子どもが興味・関心を持ったものを親の私も一緒に楽しんでいると、自然と子どもの笑顔や笑い声も素敵だなと感じることができました。どうしても子どものできていないところに目が行きがちですが、これまで気づかなかっただけでこんなにたくさんの能力や可能性を秘めている存在なんだな、という発見がありました。そうして過ごしているうちに次第に子どもの未来を肯定的に捉えられるようになった気がします。ついこのまま引きこもってしまうのではと思いがよぎりがちですが、この子の居場所はある、必ずある、将来この子を待っている人が必ずいると信じて過ごしたことは大きかったかなと思います。


ですから、ぜひ些細なことでも子どものやってみたいという気持ちを大切にして過ごしてあげてください。ゲームでもアニメでもK-POPでも何でもいいです。「好き」「楽しい」が出発点になって、欲が意欲になり、意欲が主体性につながります。そして心が動くと体も動けるようになったりします。


ある時、病院の診察の時、息子とカフェで待ち時間をつぶしていた時のことです。隣に首から上しか動かせない患者さんとその家族がやってきました。ほとんど体の自由がきかない方だったので、食べ物や飲み物を介助してもらっていました。ご本人もつらいでしょうが、ご家族も大変だなと思っていたのですが、息子が「なんで自分だけがこんなにつらい思いをしなきゃいけないんだと思っていた。あまりに体がだるくてつらいから死にたいと思うこともあったけど、でも、もっと大変な思いをして生きている人もいるんだね。起立性調節障害だと、なんで体がこんな状態になってしまうのか、将来医学部に行って学んでみたいなって思うよ。」と話してくれました。その数ヶ月後、「家庭教師を呼んでほしい。中3からは学校に復帰して、高校受験する」と言い出しました。カフェでの出会いは、暗闇の中でも未来を向くきっかけを子ども自身で見つけた瞬間だったと思っています。その数年後に本当に医学部を受験するとは思ってもいませんでしたし、娘が入れ違いに不登校になってしまったので、下宿に面倒を見に行くこともできない中、1人暮らしをこんなに頑張れるとは正直想像できませんでした。親や先生に言われたことは無理でも、自分で決めたこと、自分で掲げた目標ならやり通せるんだなということを息子から教わりました。


4月は学年も変わり、私の娘も中学3年生になります。私自身4月からどんな生活になるのか若干不安を覚えている保護者の一人でもありますが、時々世田谷に戻ってくる長男の成長ぶりを見ると、トンネルはいつかは抜ける、終わらない夜はないと実感します。どうしても学校に通っている子どもたちと比べてしまいがちですが、進学先はどこであろうと、10年、20年経ったとき振り返ったら、通過点、プロセスにしかすぎないのではないでしょうか。大事なのは、子ども自身がどれだけ自分で考え、行動したか、自分の人生をどれだけ主体的に生きたかではないでしょうか。学校に通っている生徒さんに必ずしもこれができているとは言えません。どうか今という時間を否定的にとらえず、肯定的に子どもたちの成長を楽しんでください。

 

Staff member avatar Gさん
G(仮称)と申します。こんにちは。今日は、私と子どもたちの困っていた過去と、紆余曲折の後の今について、お話させていただきます。


我が家は4人家族で、長男が高1、次男が中1です。1年前に世田谷区から軽井沢に家族で移住しました。今日は高1の長男も一緒に来ています。世田谷区在住のときは、自宅で子ども達と関わるボランティアや、区の助成を受けて、発達が気になる親子さんのサポートをしていました。また、私は2年前に大学の心理学部に編入し、先日無事に卒業して認定心理士の資格も取得しました。長男が幼稚園のとき、家では「いい子」でしたが、幼稚園ではお友だちとのトラブルが多く、そのたびに困って、謝って、いたたまれずで・・・。私はママ友からも孤立していきました。幼稚園では加配の先生がつき、世田谷区の発達相談室の療育にも通いました。当時の私の子育て方針は、学力向上としつけ最優先で、指示・命令・禁止ばかりだったと思います。いまから考えると、温かみに欠けた関わりで、私自身はいつもイライラしていました。でも、当時はよかれと思って必死でした。


いま振り返ってありがたかったのは、幼稚園や療育の先生が、こんな私を否定することなく励ましてくれたことです。ある日、幼稚園の先生から『子どもへのまなざし』という本をすすめられました。読んで私が衝撃を受けたのは、子どもが何歳であっても、受容して甘えさせることが大事という箇所でした。当時の私の子育ては真逆だったからです。でも私が子どもだったとしたら、親にそんなふうに育ててもらいたかったと思えたので、チャレンジしようと決断しました。


子育て改革にあたり、夫とも話し合い、その日から家族関係再構築の旅が始まりました。やったことは、3つです。①子どもの意思を尊重する、②子どもとのふれあい遊びを大切にする、③夫を子育てに巻き込む、です。今までと真逆なので、何度も失敗しながらも、関わり方を変えていって半年ぐらいで、長男は幼稚園で落ち着いてきたと先生からご連絡をいただきました。そして療育の先生からも、もう通わなくて大丈夫と言われました。


こうお話しすると順調に聞こえるかもしれませんが、実際にはそうではなく、子ども達の勉強のことでも悩みました。長男が小学生になると、勉強をしなくても得意なことをやれればいいと思ってはいても、漢字が書けない子どもを見ると不安になりました。また、長男に学校を休みたいと言われた時に、私は落胆しイラッとしてしまうことがありました。そんなとき、長男が悲しそうな顔で私を見るのでハッとして反省し、その都度謝りましたが、子どもたちが私の顔色を見て過ごすことが増えていきました。過去の私と同じ思いを、子どもたちにもさせている自分が嫌で嫌でたまりませんでした。迷いながらも、結局、私は子どもに勉強させることを手放しました。理由はたったひとつ。「家族揃って笑顔で食事がしたい」からです。それを最優先で日々過ごしていたら、長男が中2になったとき、ある日突然、「塾に行きたい」と言い出しました。親が勉強を手放したことで、子どもが勉強するようになったことは本当に不思議なことです。


もがき悩み苦しみながらすすんできましたが、でも必ず道は開けると思います。現在の我が家の状況ですが、長男は長野県の高校1年生で生徒会に入り、アイスホッケー部でも活動しています。長野県の留学支援プログラムで選抜され、先月はカンボジアに行っていました。次男も小学校時代に不登校を経験しましたが、小学校6年生の頃には運動会の応援団長をやりました。現在は軽井沢の学校に通いながら主体的に学んでいます。苦しい家族関係再構築の旅は、いつのまにか楽しいものになり、夏には家族で旅行に行きました。子ども達との一人っ子タイムも大事にしていて、長男とは先日一緒にコンサートに行きました。次男とは春休みに一緒にディズニーランドに行きます。ありがとうございました。

 

いかがだったでしょうか。

それぞれの保護者の方が、お子さんと向き合う中で感じてきた思いの詰まったお話でした。
多くの方が、不登校の子を持つ親と出会う機会や相談先の存在に支えられたというお話をされていました。本サイトでは世田谷区内の様々な保護者の会や子どもの居場所などの支援情報を掲載しています。また、様々なイベント情報も掲載しています。ぜひご覧いただき、ご自身のタイミングで足を運んでみていただければと思います。

次の記事では、世田谷区にあるチャレンジスクールである世田谷泉高校の先生と生徒によるお話をご紹介します。お楽しみに!

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