「不登校当事者による多様な進路交流会」レポート② 〜子どもたちの経験談 vol.1〜
この記事では、2024年11月4日(祝)に三軒茶屋しゃれなあどホールにて行われた「不登校当事者による多様な進路交流会」の第2部でお話をしてくれた子どもたちの経験談について、まとめています。
今回のイベントでは、7名の子どもたちが不登校の経験について語ってくれました。本記事は子どもたちの経験談 vol.1とし、3名のお話をお伝えします。
それぞれが、どんな経緯で不登校になったのか、不登校の時期はどんなことを感じ、考えて、どのように過ごしていたか、保護者の関わりで嬉しかったことと嫌だったことなどを話してくれました。
勇気づけられる話も多いと思いますので、ぜひご覧ください。
〜こちらもあわせてお読みください〜
★保護者の方の経験談 vol.1の記事はこちら(公開をお待ちください)
★保護者の方の経験談 vol.2の記事はこちら(公開をお待ちください)
ーーまず自己紹介と不登校になった経緯、その時どんな生活をしていたかを教えてください。
私は小学5年の時のいじめがきっかけでそこから5年間不登校でした。高校進学時に新宿山吹高校に入学しました。不登校の時の生活は、学校にトラウマもあったので、家で過ごす時間が多かったです。そんな時、親が近所にあったLEGOを使ったプログラミング教室のチラシをくれて、LEGOが好きだったのでそこに通うようになりました。それからはそこの教室に通う時間が増えましたね。当時はすべての時間をプログラミングに使ってやったり、大会に出場したりしていて、それがとても楽しかったです。高校1年生の時にはプログラミングの世界大会にも出場することができました。
あと、当時は世田谷区のほっとスクール尾山台にも通っていました。とにかくこの時期は元気がなかったので、バドミントンなどで、体を動かすことができる点が僕にはよかったです。
そして高校には、通い始めたものの、教室にはあまり行く気になれず、単位制だったため、4年かけて卒業しました。
ーーなぜ大学に行く時に魚の研究を選んだんですか?
ーー当時を振り返り、周りの大人に伝えたいことなどありますか?
魚の研究の中には魚の不安行動を観察した研究もあります。しかしこれらの研究の中で同じ種類の魚でも不安が回復するスピードは非常に個体差があります。
人間ももちろん人によります。自分自身も今思えば、不登校の時期は自分にとって絶対に必要な時間だったし、それがあったから今があると思っています。周りからみると、心配になったり、焦って色々勧めたくなる気持ちはわかるが、その子の段階にあわせた選択肢の提供がしてあげられると良いと思いますね。
ーーまず自己紹介と不登校になった経緯、その時どんな生活をしていたかを教えてください。
僕は前提として、幼稚園の頃から「なんで幼稚園に行くんだろう」と思っていました。小さい頃から色んなことに疑問を持っていたんです。でも親に行くように言われていたから行ってはいました。当時を今振り返ると週1回くらいのペースで熱が出たり、お腹痛くなったりしていたような気がします。それから時はすぎて、中3の時に、色んなことがあり、ポケモンゲームを触るようになり、中3のはじめの7ヶ月はポケモンゲームに時間を注いだ結果、全国大会に出ることができました。でも実は、うちは1日30分までしかゲームをさせてもらえなかったので、それ以外の時間は全て情報収集や分析、解析にあてていました。
当時、学校では、「ゲームばかりしても意味はない、価値はない」などと言われたり、挙句に精神病院に連れて行かれたこともあったりと、行動を否定されていました。ただ全国大会で優勝したら、一瞬で掌返しして「素晴らしい!君は天才だ」などと言われたことで、それまでの「なんで学校に行かなくてはならないのか」という疑問なども色々含めて爆発してしまい、「こんな大人から学ぶことはない」と思ったり、学校への疑問を持ったりして、中3の夏から不登校になりました。
そして、その翌日に教育委員会に行き、学校から言われていた否定的な言葉などを伝え、「応援はしてくれなくていいが、否定をするのはどうなんだ」、という意見をしました。そしたら、そこで対応してくれた先生がとても息が合う方で、文科省や教育委員会の存在、民間での教育など、こうやって教育ができているんだということを教えてくれたんです。それがきっかけで教育への興味が出て、今の仕事につながっています。その先生が魅力的だった理由は、それまでの周りの大人は「大会で優勝したことが素晴らしかった」という人ばかりだった中、「そこに向けて君は何を頑張ったのか」という過程を聞いて評価してくれた最初の大人だったからです。
その後、この教育委員会からの紹介で自由の森学園高校に進学しました。ここは全日制の学校だったんですが、ここでも僕は校長先生に頼んで、週1回くらいの登校にしてもらっていました。なぜなら教育に興味があったから、教育系の会社に遊びに行ったり、一緒にイベントをしたり、ゲーマーになりたいことを伝えていて、ゲームにちゃんと時間を使ったりしたかったから。それを許してもらって高校には通い、そのまま大学は、オンラインの大学に進学しました。社会人も多い大学で、経営を学びました。
そして今はゲーム教室をやっています。教室には不登校の子どもも多いです。はじめは暗い子もいますが、ゲームを通して、①信頼できる大人との出会い、②信頼できる友達との出会い、③自分はこれができる、という自信をつけていく、という3軸を同時にすすめていくと、どんどん前向きになっていくことができると実感しています。そういう子をたくさん見ています。
ーー保護者の関わりでよかったことなどはありますか?
ーーまず自己紹介と不登校になった経緯、その時どんな生活をしていたかを教えてください。
私は、小学校までは学校に通っていて、中学受験をして中高一貫の女子校に合格しました。それと同時に引越しをしていました。不登校になったきっかけは中1の9月くらいで、勉強も厳しい学校だったので、英語のテストでできないと再試再試、というような感じでした。その頃に課題が終わらなくて体調を崩してしまいました。またそのタイミングでは、教室にあまり合う友人もいなかったことや、苦手と思っていた子に好かれてしまうなど、人間関係での悩みもありました。重ねて、引越しによる環境変化もあったので、学校でも疲れて帰ってくるのに、家でも落ち着けず疲れてしまっていました。最近振り返ると、元々の性格的な要因もあったのかなと気づいたりもしています。
その後は、保健室登校をしてみたり、フリースクールに通ってみたりもしました。常に全く行けないわけではなく、一部行ったりもしていました。学校に親友がいたので、高校には内部進学したものの、やはり体力的に難しくなり、途中で出席日数が足らなくなって、退学か留年せざるを得なくなりました。留年というのは考えていなかったので、高一の3月で退学し、4月に新宿山吹通信制に入学しました。そこでは週1回の学校とレポートを出して、3年で卒業し、大学へ進学しました。
出席日数の関係で退学か留年が決まった際、母はすぐに転校すればみんなと学年をずらさずに通信制の高校に通えると言って勧めましたが、私のショックがあまりにも強く、時間が必要だったため、高1からもう一度やり直すことにしました。ストレートに行けばという思いも今となってはゼロではないですが、それが無理だったのは自分が1番よく知っているので、学年を下げたことに後悔はしていません。
ーー保護者の関わりでよかったことなどはありますか?
ーー逆に、保護者の関わりで嫌だったと思うことはありますか?
いかがだったでしょうか。
当事者の本音が聞ける時間になりました。不登校と言ってもきっかけや経緯、その後の進み方も本当に様々です。たくさんの経験談を読むことで、少しでもヒントになれば嬉しいです。
次の記事では他の4名についてのお話をレポートします。お楽しみに!